コンブリック 1/350 CS35042
露・戦艦オスリャービャ・1901・日露
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 全長133.4m・排水量12674トン・3段膨張式レプシロ機関3基・最大速力18ノット・254mm連装砲塔2基・152mm単装砲11基・75mm単装砲20基・381mm魚雷発射管5基

オスリャービャは、ペレスヴェート級戦艦の2番艦として1895年度の建艦計画で発注された。1895年11月22日にサンクトペテルブルクの新海軍工廠で起工、1901年8月に竣工した。

日露戦争開戦直前、オスリャービャは防護巡洋艦アヴローラなどを伴いバルト海から旅順へ向かう航海の途中であったが、故障などで地中海に釘付けとなっていた。スエズ運河を越え紅海にまで達したものの、そこで開戦となり旅順への合流は不可能としてバルト海へ呼び戻された。そしてオスリャービャはウラジーミル・ベール大佐の指揮の下、第2太平洋艦隊に編入され、第2装甲艦隊司令官フェルケルザム海軍少将が乗艦する旗艦となった。オスリャービャは、艦隊の中での砲術部門における優秀艦に選ばれた。オスリャービャは、第2装甲艦隊所属となった戦艦シソイ・ヴェリキィー、ナヴァリン、装甲巡洋艦アドミラール・ナヒーモフを率い、戦域を目指した。

戦闘を前に、艦ではもともとの重量オーバーに加え過積載により主装甲帯が海面下に没するという状態が生じていた。このことが、オスリャービャの運命を決定付けることとなった。1905年5月24日にはフェリケルザムが病により没したが、そのことは全艦隊に伏せられ、将官旗は降ろされなかった。

5月27日、対馬海峡においてオスリャービャは第2装甲艦隊の旗艦として三列縦隊のうちの左翼先頭にいた。海戦の始まりにおいてオスリャービャは日本側の戦艦と装甲巡洋艦計12隻のうちの7隻による集中砲火を一身に浴びることとなった。これは戦隊の先頭艦を集中攻撃する日本側の方針や、三本煙突で識別しやすかったことが原因とされている。中央の列にいた第1装甲艦隊の最後尾である戦艦オリョールとほぼ並走していて、そこからその真後ろにつくべく速度を落としていたため、多数の直撃弾を浴びてしまった。まもなく艦首の火砲はすべて使用不能となり、前部艦橋は炎に包まれた。船体は傾斜を増し、それは前を走るオリョールの艦尾の12インチ砲塔からオスリャービャの艦尾に至るまでの全甲板が見渡せたほどであった。14時45分には艦首装甲砲座部分に被弾し大穴が開き、オスリャービャは戦列から落伍した。艦首および船体は大きく傾斜し、左舷は落伍ののち10分で水没した。15時7分に日本側がオスリャービャの沈没を確認し、オスリャービャは日本海海戦で撃沈された最初の戦艦となった。なお、フェリケルザムの遺体はオスリャービャの冷蔵倉庫に安置されており、オスリャービャと共に没した。

515名近くが戦死し、その中には艦橋を退くことを拒んだベール艦長も含まれた。第1水雷艇隊の駆逐艦が救助に駆けつけ、250名がブイヌイに、10名ずつがブラーヴィイとブィーストルイに救助された。その後、ブラーヴイはウラジオストクへたどり着くことができたが、他の2隻は失われ乗員は捕虜となった。

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